南伊豆道院について

頑ん張れば何でもできることを学んでほしい
1974年(昭和49)年、伊豆初の道院として中野隆氏が設立。
中野隆氏は桜ヶ丘道院の出身(現在,東京多摩支部)で、郷里に帰ってから青年を集めて指導を始めた。
場所は、南伊豆の海岸沿いの簡素な寺の境内。冬の冷たい浜風は、非常にこたえたという、その後、拳士の父親の 口添えで、南伊豆町中央公民館に移動。そのころには、地元で少林寺拳法の名前も知られるようになり、子供の入門も増え始めた、しかし79年ごろ、運営上の問題から、活動が停止状態になった。道院長が道場に出てきてくれず四段科目を何も教わっていないし後輩拳士の指導ばかりで自分の練習ができずに悩んでいた山本清治が、一ヶ月間仕事を休んで、四段の受験の為、本山で修行。彼は何も四段科目の練習もしていないのに受験願書を本山に提出した。
「一ヶ月必死にがんばれば何とかなる」昼は本山で学生講習会の手伝い、夜は本部道院で練習と少林寺漬けの毎日の中で本部道院の宮崎先生が実情を判ってくれ毎晩遅くまで指導を買って出てくれた。今でもその当時を思い出すと目頭に熱い物を感ずるし、宮崎先生には感謝の念でいっぱいだという。
山本はその間に本山から 「君が四段を取得したら道院長としてやりなさい。もしいやなら道院は廃院にする。1年間ようすを見て、それから道院を継続させるかどうかを判断する」と提案された。寝耳に水のことで、山本は驚いたと同時に自分が指導していた子供たちの顔が脳裏に浮かんだ、廃院になるくらいなら、自分が引き継ごう、と決心し山本は伊豆に帰り、拳士仲間に相談した。それまで、同じ立場で修行していた拳士が、急に道院長になるということで、山本は仲間の気持ちを思いやった。「ついて来てくれるか、くれないか、正直に言ってほしい」という問いに、全員が「ついて行く」と答えた。80年、拳士40人とともに防具数個、経典、六尺棒をひきついで、山本は道院長として新たなスタートをきった。道院を引き継いだというより、拳士たちと一諸につくり上げたという気持ちが強いというが、それでも「道院を乗っ取った」などと言われ、つらい思いもしたこともあります。でも、その年の全日本少年武道錬成大会で団体の部で、最優秀賞をいただき、自信がつきました。一番の思い出は、84年の中国武術団伊豆公演の成功である。
父母会を中心に、運営・準備に明け暮れたかいあって人口1万人の町に、千人以上の観客が集まった。「全力でやれば、何でもできる」と思ったのは、この時からです。自然環境に恵まれた当、道院では弓ヶ浜での練習やバーべキューなども盛んで、道場から離れた練習にも力をいれている。トロフィーや賞状がいくつあってもしかたない、大切なのは「頑ん張れば何でも出来ると言う自信」です。
拳士たちには、どんなに辛くとも決して逃げ出さない心の強さを身に付けて欲しいと思う。

「五十年史からの抜粋」 

              
                                

南伊豆町武道館について

私たち南伊豆道院の拳士が練習で使用している武道館は、当初三団体(少林寺拳法・剣道・柔道)の長年の悲願であった、武道館建設の形である。贅沢ではあるが「武道は体育館でなく武道館で」を合言葉に日夜署名運動に奮闘し、人口1万数百の町で人口の半分以上の署名を集め、
町当局にお願いし現実となった武道館です。
建設に当っても企画、設計から私たちの意見を聞いて戴き各団体一つずつの鍵まで任せてもらい使用しています。
「がんばれば何でもできる」を現実にした武道館で修行できる拳士は幸せであると同時に、町の青少年育成に寄せる武道えの期待も大きい事を感じます。

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